手放す日記

モノもコトもヒトも手放していく。カラダと五感を磨く。

直してみた

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多分6年目くらいになるUNIQLOのジーンズ。たまたまよく似た色の木綿糸があったので、すり減って経糸だけになったところを繕ってみた。闇雲に局所的に糸を縫い込んだだけなので、またそう遠くないうちにダメになるだろうけど、これを生かして薄くなってきているところに縫込みをしたら面白いかもしれない。しっかり裏打ちをして縫い込んだら、刺し子みたいになるだろう。

そう。贅沢しなくてもいい。汚らしくならない程度に、直したり繕ったり、そうやってものを使い込んでみたい。 

245 キートレイ

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イギリスの工芸品。玄関に置いておいて、帰ってきたら鍵を放り込むようなタイプのもの。ポケットのコインを入れたり、ナッツを入れたりね。

友人の結婚式の引き出物だった。どうしているかな。帰国したと聞いて、もう長く会っていない。わたしも暮らし方が変わったので、多分もう会えないのだろう。

そんな感傷から持ち続けていたけれど、この機会に手放す。

244 ワイプクロス

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先日使いかけを処分したマイクロファイバーのワイプクロス。新品なのでなんとなく手放し難かったのだが、同じ理由で結局不満のある使い心地なのだから、とにかく処分してしまうことにした。

新品を捨てるときは、本当に心が痛む。でも、メルカリやフリマ出品の手間をかける気にもならない。利用する人にはもったいないんだろうなと思いつつ、目をつぶって処分。くださった人には、ありがとうとごめんなさいを。

 

減れば減るほどいらない

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服や小物が本当に減った。今の時期に着ているものは、下着を除き、コートも合わせて10着程度。靴は3足。バッグは3点。なのに十分で、セールの時期だというのに買いたいものがない。今着ていない冬物は、着たくない理由があるので、早晩手放すことになるだろう。

不思議なものだ。いくらでも欲しかった時期がある。50を超える靴を持ち、30を超えるバッグを持っていた。ジャケットだけで10枚程度。全てのアイテムが過剰なのに、セールの時期にはまた買った。

なんだったのかな。惰性でお金を使っていたんだろうか。

一番大きい違いは、「誰の視点から見るか」なのかもしれない。わたしにとって、「おしゃれな人に見える」ことが必要ではなくなったのだろう。

減って絞った服は、奇抜なものもあるし、無難なものもあるが、どれもわたしらしい。減らしてよかったと思う。

243 赤ボーダーシャツ

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たくさんあるボーダーの一枚。コレも貰い物なのだが、サイズが合わない。メンズサイズなのを気付かずくれたらしい。

ボートネックのボーダーは、サイズが合わないと襟ぐりがガバガバする。何年かにわたり、何度か着こなそうと努力して着てきたのだけれど、何も頑張らなくてもいいかと思う。減らしている最中なのだし。前を切り開いてカーディガン風にしようかと思ったのだが、多分手をつけるにはだいぶ時間がかかるだろう。

というわけで、穴の空いたセーターに続き、久々に服を手放す。

242 コリンズグラス

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オマケのグラス。こういう長いグラスは洗うのが大変。花瓶がわりに使うかと思ったが、使わない。オマケに惹かれるタイプの家族が持ってきたのだけれど、本人も一度も使わない。ならば、不燃ごみの日に出してしまおう。

ただ、静かに始めればいい

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今日は新月だ。旧暦正月。新しい一年の始まり。当然月明かりはない。そして、新しいことを始めるにはぴったりなのではないだろうか。

ものを手放そうと決めた時(それはブログ以前なのだけれど)、わたしはだれにも何も宣言しなかった。ただ、古い服を数点選んで、リサイクルセンターに運んだ。それが始まりだった。

何かを始めるのに、大きく思い切らなくてもいい。ただ、すいっと一歩を踏み出せばいい。そして、単純にやめないこと。

たいして進んでいないと思っても、ある日振り返ったら、最初よりずいぶん遠くに来ているのに気付くだろう。その頃には、目指す場所が以前とは変わっているかもしれない。それでいいのだ。

それがわたしの励み。些細なものだけれど、今日も手放し続けていく。

(ずいぶん前のことだけれど、去年の9月に分解し始めた木の枝のすだれを、さっき分解し終えた。馬鹿らしいほど時間がかかったけれど、やっと終わった。つかえが1つ取れた気分だ。)

 

241 ソープトレイ

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20代からいくつも代替わりで使ってきたお気に入りのソープトレイ。当時はワイヤーフレームのトレイは水切れから見ても有能で佇まいも珍しく、まさに出会ったと思って使ってきた。

もうその店でも扱いがなく、もう代わりがない。でもね、そんなにこだわるような物でもないと、多分四半世紀ぶりくらいに思った。思った時が手放し時。

240 アンティークの筒

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タイの田舎で使われた筒は、多分針入れらしい。竹を切って蓋のある筒を作り、細かい彫刻と、多分漆が擦り込まれていた。

これも欲しいという人がいるのであげることにした。たしかに素晴らしいものなのだけれど、わたしは実はこれが好きだったことがない。元々が頂き物で、その人とはもう会うこともないのだけれど。

好きだという人の手に渡ることをうれしく思う。

気が乗らない日もある

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1日に1つは、と思いながら手放している。ものはたくさんあるのに、いらないものなんかないと思う日もある。もちろん、何もかもいらないと思う日もあるのだが。

そんな日は、デスクの上のレシートをまとめてちぎって捨てたりする。

シールを手放した時は、少しずつ、選ぶようにして捨てているうちに、1つも要らなくなった。

人生で何を大切にしたいかさえ、日によって違うこともある。人というのは不確かなものだ。

このブログ以前も勘定に入れれば、手放したものは1000に近くなるだろう。それでも我が家には、手放したのと同じくらいの物があるようだ。

写真に残したものを見ると、大事だと思っていたものでも、手放して後悔しているものはほぼ無い。手放してよかったと感じる物もあるけれど、そんなに積極的ではなく、まあなくても大丈夫なんだなと思うものもある。

自分で自分の気持ちを確かめながら、1つ、また1つ。棺桶までは持って行けないとはよく言ったものだ。

気が乗らない日でも、足を止めずに一歩ずつ。