243 赤ボーダーシャツ
たくさんあるボーダーの一枚。コレも貰い物なのだが、サイズが合わない。メンズサイズなのを気付かずくれたらしい。
ボートネックのボーダーは、サイズが合わないと襟ぐりがガバガバする。何年かにわたり、何度か着こなそうと努力して着てきたのだけれど、何も頑張らなくてもいいかと思う。減らしている最中なのだし。前を切り開いてカーディガン風にしようかと思ったのだが、多分手をつけるにはだいぶ時間がかかるだろう。
というわけで、穴の空いたセーターに続き、久々に服を手放す。
242 コリンズグラス
オマケのグラス。こういう長いグラスは洗うのが大変。花瓶がわりに使うかと思ったが、使わない。オマケに惹かれるタイプの家族が持ってきたのだけれど、本人も一度も使わない。ならば、不燃ごみの日に出してしまおう。
ただ、静かに始めればいい
今日は新月だ。旧暦正月。新しい一年の始まり。当然月明かりはない。そして、新しいことを始めるにはぴったりなのではないだろうか。
ものを手放そうと決めた時(それはブログ以前なのだけれど)、わたしはだれにも何も宣言しなかった。ただ、古い服を数点選んで、リサイクルセンターに運んだ。それが始まりだった。
何かを始めるのに、大きく思い切らなくてもいい。ただ、すいっと一歩を踏み出せばいい。そして、単純にやめないこと。
たいして進んでいないと思っても、ある日振り返ったら、最初よりずいぶん遠くに来ているのに気付くだろう。その頃には、目指す場所が以前とは変わっているかもしれない。それでいいのだ。
それがわたしの励み。些細なものだけれど、今日も手放し続けていく。
(ずいぶん前のことだけれど、去年の9月に分解し始めた木の枝のすだれを、さっき分解し終えた。馬鹿らしいほど時間がかかったけれど、やっと終わった。つかえが1つ取れた気分だ。)
241 ソープトレイ
20代からいくつも代替わりで使ってきたお気に入りのソープトレイ。当時はワイヤーフレームのトレイは水切れから見ても有能で佇まいも珍しく、まさに出会ったと思って使ってきた。
もうその店でも扱いがなく、もう代わりがない。でもね、そんなにこだわるような物でもないと、多分四半世紀ぶりくらいに思った。思った時が手放し時。
240 アンティークの筒
タイの田舎で使われた筒は、多分針入れらしい。竹を切って蓋のある筒を作り、細かい彫刻と、多分漆が擦り込まれていた。
これも欲しいという人がいるのであげることにした。たしかに素晴らしいものなのだけれど、わたしは実はこれが好きだったことがない。元々が頂き物で、その人とはもう会うこともないのだけれど。
好きだという人の手に渡ることをうれしく思う。
気が乗らない日もある
1日に1つは、と思いながら手放している。ものはたくさんあるのに、いらないものなんかないと思う日もある。もちろん、何もかもいらないと思う日もあるのだが。
そんな日は、デスクの上のレシートをまとめてちぎって捨てたりする。
シールを手放した時は、少しずつ、選ぶようにして捨てているうちに、1つも要らなくなった。
人生で何を大切にしたいかさえ、日によって違うこともある。人というのは不確かなものだ。
このブログ以前も勘定に入れれば、手放したものは1000に近くなるだろう。それでも我が家には、手放したのと同じくらいの物があるようだ。
写真に残したものを見ると、大事だと思っていたものでも、手放して後悔しているものはほぼ無い。手放してよかったと感じる物もあるけれど、そんなに積極的ではなく、まあなくても大丈夫なんだなと思うものもある。
自分で自分の気持ちを確かめながら、1つ、また1つ。棺桶までは持って行けないとはよく言ったものだ。
気が乗らない日でも、足を止めずに一歩ずつ。
236 ゴーフルの缶
こんなの手放すのが一騒ぎなんてね。パッケージや緩衝材の段ボールの設計、ショッピングバッグのデザインなんかが大好きで、中でもきれいな缶が手放しにくい。
ここに書けば手放せるかな。ライフデザインがなってないということで。
さすがにコレクターみたいに集めるのはやめたけれど、つい手元に置いておきたくなる。根っこはコレクター気質。